4/8
大好きなバンド ヒトリエのリーダー、wowakaさんが天国へと行ってしまった。
ライブ中止のお知らせを知った時から、きっと誰かの身内の不幸なのだとなるべく楽観的に考えようとしたけれど、難しかったし、不安は現実だった。
3/23の名古屋クアトロで、ヒトリエのライブを見ることができて、ほんとうに良かったと思う。あのライブは、なんというか、私が見てきた彼らの中で一番、音楽に近かった。
これから彼らはもっともっと輝いて、大きくなっていくんだと思った。これからも何度だってライブをみたいと、興奮した。
メロディにならない音も、無音での空気さえも彼らは支配して、ライブを作り上げていた。ほんとうに素晴らしいライブだった。
もうwowakaさんが音楽に向かい合っている姿を、生で見られないのが、そして4人のヒトリエが見られないのが、あまりに悲しい。
訃報に寄せられたメンバーお三方のメッセージはとても力強くて、真摯に前向きで、私が弱音を吐いていてはいけないなと感じる。彼らもおそらく振り絞った言葉で、私達を勇気付けてくれているのだと思う。
彼らの言葉は、苦しみと闘う姿に見える。wowakaさんのボカロ曲から始まり、ヒトリエに続き、生み出してきた音楽にも通じている気がする。
愛がどうか、天国へ届きますように。
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私は常にできるだけ早く死にたいと思っているけれど、命を燃やすように生きないと簡単には死ねないのだとぼんやり思ったりした。
情熱を持って、頑張らなければ、すぐには死ねない。
生きていて楽しいと全身で訴えなければ、向こうの世界にはつれていってもらえない。
4/4
泣き出すと涙が出ていることに悲しくなるので涙が止まらなくなる のだと思う。
当時の私はそれなりに一生懸命なのだけれど、後の私や他の人から見れば抜けがいっぱいあるし、当時の私が何故それを良しとしたのかもよくわからない。でもそれを繰り返してしまうし、作業スピードは上がらない。一生懸命なはずなのだけど。
相変わらず自分ができる作業スピードと上司の期待する作業スピードが噛み合っていなくて、どうしてここまでできていないのだろうという反応をされてしまう。とはいえ私は毎日夜10時まで仕事をがんばりますという気持ちがないので出来ないものは出来ない。
それなりに頑張っているつもり(冷静に考えれば別に出来てはいない)なのに、あれもない、これもない、と指摘されるとどんどんパニックになっていく、という自分の中の感覚は少しずつわかってきたのだけれど、とはいえ対処のしようがないのでとりあえず泣きながらでも普通に仕事を続けるしかない。最近は上司も慣れてきてくれたような気がするけれど。
目の前のことに必死で、全体を通してなにをしているのかわからなくなるのが一番の問題です。典型的なADHDの傾向とも言えるのだろうけれど。
これをしろ、といわれたら、”これ”の部分をした時点で全部できた気になって、”これ”をどうしてやっているのかとか、やったあとにどう活用するのかとか、全然考えられない。全てが個々でぶちぶち切れてしまっているので、物事のつながりをうまく掴めない。
やはり人間としてどうしようもなく社会に適していないから、どう生きて行けばいいのかわからない。
3/31
元彼がちゃんと新しくおつきあいを始めているという話を聞いて非常に複雑な気持ちになっている。
自分でも驚くほどに複雑。なかなか上手く言葉にできない。
多分単純に長く付き合っていた人が新しく恋人を作っているのが悔しいのだと思うけれど。思っていたより自分のプライドが無駄に高かった。今の環境は完璧ではなくとも楽しいし、望んだものに前よりは少し近づいているから、別れたことも好きな人がいることも良いことだという気持ちはある反面、自分があの人の一番でありたいという気持ちが捨てきれていなかった。酷い話。
多分すぐに新しい人を見つけると思っていたから予想がちゃんと当たったのだけれど、新しい彼女ができた経緯というのを聞いた中で、それにしても私はあの人のことをわかっていなったというか、気がついていなかったと思う部分もぽろぽろと出てきてしまった。
多分それも、悔しいとおもう一つの要因。
恋人という関係にある人が別に誰と連絡を取ろうが止めることではないのだけれど、確実にそれには気づいて、受け入れる気持ちを持ちたいと思う。
相手のことはしっかりと見ていなければいけない。プライベートを踏みにじることはしない方法でコミュニケーションをとりながら、相手がどんなことを考え、どんな時にどういう風に動く人間かを知っていかないといけない。
自分の好きなことを目一杯やらせてもらえるのは幸せだし、私はやりたいことをしっかりこなして死んでいきたいのだけれど、ちゃんと相手のことを見ていないと、私は将来またこんな面倒な感情を抱くことになるのだから。
3/14
なんとか気を保って生きているし、今回は上司との面談の時間配分がやった仕事の話をしていると終わったので泣かずに済みました。
少しでも未来の話をされるとどうにも辛くなったり、答えに窮する場面に突き当たるとパニックで涙を出してしまうということが多くて、上司も私と話すのは大変だと思う。
所謂普通、というものが遠くかけ離れたものだと自覚できてから私の方はある種の諦めがついているのだけど、上司は私のことを知る由もなし、頑張れと背中を押してくれる。
鉄分を指定よりも多く摂るようにして、ビタミンCも飲んで、多分目覚めが少し良くなっている。
ただ朝1で義務がない限りは起きあがる気力はおきないので随分と長い間お布団に潜ってしまい、たまに二度寝もする。
気持ちと体が10センチくらいずれている。
2/19
変わりたいという気持ちがあるけれど、反面、今まで作ってきた外面を壊すのは正気なのか?と思うところもあるし、自己肯定できていないからそういうことをして目立とうとしているだけなのではという気持ちは拭えない。
私がやってるからこれは他愛もなく、くだらないことなんだとずっと思っている。こといつもの仕事において、どうしようもない壁を感じる。
自分のやっていることと真摯に向かい合えない。どちらかと役に立たないことだから回されていることなのだと結構真剣に思ってしまう。
責任から逃げているだけかもしれない。でも今やっていることができたところで私は得られるものがあるのだろうか?役に立たないことができるようになって、自分の中で完結するだけではないのか。
この社会で生きていていいという自信がない。
2/15
ツイッターで流れてくる学級会案件にはいろいろ言いたいこともあるけれど、ツイートとしてはほとんど出さないようにしている。
単純に、私のフォロワーはそれを求めてないだろうなという気持ちと、私が本当に何かに意見したいときに、ああこの人は本当に怒ってるんだなとか伝わるかなとおもっているので。
とはいえ学級会になるくらいだからやっぱり食いつきやすい。薄い本の値段とか、何度悩んできたことか。
自分で作ったものに値段をつけるとき、結局は相場をみてなんとなくこのあたりかな、できめてしまうけれど、そこに至るまで相当悩む。
せっかく頑張ったから出来るだけいろんな人の手にわたってほしい、でもこの値段で手に取りたいとおもってもらえるのだろうか?という葛藤がお品書きを作るまで永遠につづく。
買う側の私からすれば、書いている人や内容が好きだったらいくらでもいいからとにかく区切りのいい値段で出して!という意見があるわけですが、自分のことになると判断が難しくなるというか。
まず自分の作品に興味を持ってくれている人がどれくらいいるかもわからないし、もしほんの少し興味を持っている人がいるなら価格が抑えられていればなにかの拍子に手に取ってもらえるチャンスは増えるのでは…?みたいな希望とか。
本当ならタダでいい、と言いたいくらいだけれど印刷費はそんなに安くないし、また本は書きたいから損失は少ない方がいいので、価格を自分の許容できる赤字内で設定しないといけないのは若干心労でもある。自分の本なんて作っている間に何度も見ていて他人にとってどういう価値を感じ取ってもらえるかもう上手に判断できなくなっているから。
そこで疲れているのに他人に意見されて嫌になるのは仕方がないことだなぁとおもうので、
例え本が適正価格でないと感じても本人に対して言わないで広いツイッターの海に特定できない感じでつぶやくのがいちばん建設的ではないかと思いました。
2/9
社会にとって自分の生きる価値が見出せない。仕事ができなくなった瞬間に死を選ばせてもらうことでくらいしか社会に貢献できない。
自分ことを知っている誰かに、早く死んだ方が世のためだって言ってもらった方がよほど楽になれる気がする。
私は誰かの役に立てているのだろうか。
誰かに必要とされているのだろうか。
誰かと繋がっているのだろうか。
受け取るばかりで、なにも返せてきていないから、どんどん見放されていっているのが、今の結果ではないだろうか。
もうどれだけがんばったところで取り返しがつかないのではないのだろうか。
人のことが全然考えられなくて、自分がこうしたいという気持ちを強く持って生きてきて、別に後悔はしていないけれど、得たものを還元する方法を全く考えてきていなかったことに関しては本当にただただ馬鹿だなと思う。
いっぱい期待してもらっていたはずなのに、全て無下にしてしまった。
きっといまは、居なくなることを期待されている。